こんにちは。やまうじです。
今回もごまみその力を借ります。
さて、今日は『がっこうぐらし!』の連載が始まった日です。(大遅刻)
完結した現在において、物語全体を俯瞰することができるわけですが、
やはり最後の方はどうしても議論の余地がたくさん残ってしまうという印象です。
特に終盤だと、それまで登場しなかった人物が一気に増え、物語の雰囲気が変わったと感じる意見も見かけます。
今回はそんな、一応はハッピーエンドだけど無理やりな終わらせ方をしたようにも思われる展開が、ご都合なのか必然なのかについて見ていこうと思います。
今回も有識者が書くという考察というものを、素人の私も書いてみようと思い、書いてみます。
ランダル・コーポレーションが抱く理想
ここでは、主要人物以外の登場人物であるランダル・コーポレーションの人たちに目を向けていこうと思います。
「嘘」は「理想」
嘘についておさらい。

「嘘」とは誤情報を意味するものであり、特に日常では事実でないとわかっていながら発言することに使われる印象です。不利益を被らせる意図が含まれるわけです。
しかし、この作品では「事実だったら嬉しいと思っている」という要素が強調されています。
リアルタイムで原作を読んでいた読者の間では、10巻以降を大学の次の就職活動と捉える考察がありました。
それを参考にさせてもらいながら、就職活動の嘘の「事実だったら嬉しい」を強めにすると、
「面接では一人ひとりの長所や個性を引き出すように努めます」
→そういった面接ができたらいいのに
「今後のご健闘をお祈り申し上げます」
→幸せを祈れるようないい人になれたら嬉しい
こういった解釈もできるわけです。
お人好し過ぎますかね。
まあ私はきらら作品を妄信するカルト信者ですので、その程度の残念な理解力でも仕方がありません。
この観点で、ランダル・コーポレーションの理想を探っていこうと思います。
SILモデル
ランダル・コーポレーションの壁に書いてあった数式です。
具体的な計算はこちらで
この式を空気感染説で読んだ場合、
・1日に6人としか接触しない
・《かれら》に噛まれることもなければ交戦もしない
・発症したら誰とも接触しないようになる
となります。
ランダル・コーポレーションはもともと緊急避難マニュアルで、確保と隔離の重要性を説いていました。
この計算では、研究所から流出した初日から確保と隔離の体制が整い過ぎている仮定になっています。
人類にとって、恣意的に有利にしているとさえ言えます。
つまり、ここでのランダルの研究員は「人類は滅亡しない。するとしても猶予がある」が事実だったら嬉しいと考えていたことになります。
しかし実際に計算して数字にすると、長くても20日程度になり、事実でないと証明されてしまいました。
76%の嘘は24%の本当
ボーモン君の仕組みなどの考察はこちらで
改めてまとめると、
・誤魔化そうとしても無意識に不自然さが出る
・他者とふれあい観測されることで不自然さがバレる
・機械は誰よりも中立で正確な他者になる
つまり、事実ではないと思いながら発言した場合に、ボーモン君は違和感を検出します。
ちなみに、今回は関係ありませんが、本気でそう思いながら発言すると、誤情報でも嘘としては検出されません。
嘘偽りのない社会を目指してボーモン君を普及させると、カルト教団が洗脳がうまくいったかを確かめるのに利用できるようになります。禁酒法みたいな感じですね。
私がボーモン君の前で
「がっこうぐらし!は欠点一つない完璧な物語です」
と音読すると、嘘が検知されます。
みなさんも音読してみることで、真のファンかどうか見極めるのに使えます。となると、普及しない方がお互い幸せかも。
話を戻しましょうか。
ランダル保護機構の発言とボーモン君が検知した嘘の可能性の一覧です。

特に印象に残るのは、くるみの要求を受け入れるに対しての76%。

嘘か本当かの二択なら嘘になります。
しかしここでは百分率にしているわけです。
間のグレーも見ていきましょう。
要求を受け入れるか受け入れないかなら、受け入れない。
しかし受け入れるというのも24%は本当。
受け入れるという選択を、実現できないけど、可能ならしたい。
この子たちを切り捨てるのは心が痛む。できることなら切り捨てる選択を取りたくない。
そういう精神性を持っていることが読み取れます。
何を以って合理的とするか
「合理的」というのは、ランダル編に入る前から、
物語全体を通して重要なテーマです。
高校編では、サバイバルに必要なことが求められるのに、
直接関係しない学園生活という架空の世界観を語る行為が活きました。
大学編では、サバイバルに必要な技能を持たなかった個体が、
状況が変わって特技を活かすようになります。
切り捨てていたら、その個体の恩恵を受けられなくなっていました。
いずれも主人公たちは「合理」から外れるように見えながら、
結果的には正しいことをしていたことになります。
では、そもそも合理的とは何なのでしょうか?
その答えがこちらに示されています。

「気持ちいい」とは?
いかにもお気持ち、感情論っぽいですよね。
お気持ちで語るスタンスでも別にいいですし、ファン層的にもそうした方が多くから喜ばれるように思えますが、
想像力のない私なりに、雑音でも入れてみようと思います。
ここでは「脳の反応」に注目していきたいと思います。
実際にある物質ではなく、それをもとに脳がどう反応するかです。
身近な例で考えてみましょう。
おにぎり1個を食べるとします。
お腹が空いてるときはすごく美味しいです。
では、既に10個食べてる状態のときは?
そこからもう1個食べるのは、拷問と感じる人も少なくないはずです。
このように、物質面で同じでも、状況によって感じ方が全然違うことがわかります。
この場面だと学園生活部は、
ランダル保護機構と交渉した場合、
超低確率で安全が保証される→すごく気持ちいい
超高確率で広域消毒が早まる→わたしらしくいられて、それなりに気持ちいい
交渉せず逃げ出した場合、
低確率で生き延びられる→モヤモヤ
高確率で広域消毒→モヤモヤ
こうなります。
生存率で見ると交渉しない方が「合理的」となりますが、
「気持ちいい」を基準にすると交渉する方が合理的と言えます。
受け入れる or 切り捨てる
続いて、ランダル保護機構の立場で見てみます。
学園生活部を受け入れるか切り捨てるか。
ただし、私やこの記事の読者にとって学園生活部は推しであり、
受け入れるの方に流されやすいことは留意しなくてはなりません。
「学園生活部のお気持ちこそが絶対だ。
作中世界のヒトは彼女らに協力するのが当たり前だ」
と盲目的に服従するのは、TDN権威主義ですからね。
本人たちが望むか望まないかに関わらず学園生活部をカルト教団の教祖にしてしまいます。
なので一旦、全く知らない相手ということにしましょう。
女子高生という属性もなくしておいた方がいいのかもしれません。
権威となりうるので。
改めて、目の前の交渉相手を受け入れると切り捨てる、
どちらが気持ちいいでしょうか?
適切に答えると、「時と場合による」です。
いや、わかりますよ。「助け合う」って言いたいのは。
助け合いを好むような性格のいい人になりたいですよね。
性格のいい人として周りに見られたいですよね。
でもそれは理想であり、嘘となることだって多いです。
試しにボーモン君に向けて、
「私は助け合いを愛する善良な人間です」
と言ってみてください。
私が言ったら嘘が検出されると思います。
あっ、ないのか。よかった。綺麗事を言ってもバレない。
判断する具体的な要素は、
①「受け入れる」選択をした際に助かる確率
②受け入れる・切り捨てる行動からどれほど「気持ちいい」が得られるのか
が挙げられます。
助かる確率
結果だけ見れば最初は失敗でその後成功となりましたが、
最初に交渉したときと最後にゆきが屋上で演説したときで、
状況が全然違います。

くるみが回復例になったというのは、データがあることもあり、信頼されました。
しかし、くるみから血清を作ることで事件を解決できる確率はどうでしょう?
この時点では、くるみが回復した結果はわかっても、理由はわかりません。

くるみが特別なだけで、他の個体では再現できないと考えるのが妥当です。
(仮に血清を作るやり方を採用したとしても、絶滅ルートでした)

ゆきが屋上で演説した場面は、雰囲気やお気持ち要素を可能な限り除いても、
・原因が分かった
・解決する方法が分かった
・実際に他の個体でも回復した
と説得力があります。
新たな回復例を含めてもたかだか一桁のサンプルだけで、
数万?数千?という命運を左右するほどになるかはわかりませんが、
前よりも説得力が遥かに上がっていることは事実です。
確率認識のバグ
少し脱線して、「実際の確率」と「体感の確率」の違いについて触れてみます。
『がっこうぐらし!』とは関係ない話なのですが、
主要人物が5人のランダム商法を行う悪質なコンテンツがあったとします。
単推しのファンにとって、当たる確率は20%です。
では、その人が当たると認識する確率は何%でしょうか?
実は20%からズレます。
本人は20%だと思っていますが、直感的には20%にはなりません。
一般に、約40%より低い確率に対しては、実際よりも高い方にズレます。
20%だと、直感的には25%〜30%ほどと認識するようです。
くるみから血清を作ることも、ゆきが演説した治療薬も、
事件を解決する確率でいえば、そこまで高くないと思います。
40%を下回るかもしれません。つまり、直感的には水増しされるわけです。
それを踏まえると、
血清→低い。確率が水増しされるがそれでも低かった
水→低い。水増し分を含めてワンチャンあると思えた
となります。
別のもので例えると、
血清→まともにコミュニケーションが取れる普通の子になる
水→オタクコンテンツのファン同士でならまともなコミュニケーションがとれる
なんて例も当てはまるかもしれません。
どちらも確率が低いわけですが、前者はワンチャンあるとすら思えません。
後者ならワンチャンあるかもと夢を見てしまうことも…
実際の確率とのズレ具合に関しては、個体差があります。
どこまでいっても「人による」ものです。
現実に近い数値で認識する人にとっては、切り捨てるのが合理的です。
過大評価する習性が強く出た個体にとっては、受け入れるのが合理的になります。
最近はランダム商法を展開するところを多く見かけるようになりました。
その情勢のおかげで、こうした知識を得ることができたのもあります。
この点だけは時代の流れに感謝しないとですね。

あっ、そういえばがっこうぐらし!もランダム・コーポレーションしてましたね。
ランダル・コーポレーションさん、私が雑音でした。
「気持ちいい」の基準
先述しましたが、同じことをするにしても、感じ方は状況によって異なります。
受け入れるか切り捨てるかを選択する対象によっても変化しますし、
特に選択する側の価値観に影響されます。
どちらがより気持ちいいかは「人による」が強いわけです。
よくこの話の思考実験にエスカレータの例を用います。
「既に何人かが左右に分かれて立っているとき、どちらに立つか」
という問です。
歩いてくる人とぶつかることや既に並んでいる人と違うことをするのをマイナスに捉える価値観を持っている場合、見える範囲で多数決を採って多数派に合わせるのが合理的です。
たぶん多くはこちらだと思います。
既に「こちら側に立つ」という認知を持っていて、変えることを苦痛に感じる人は、認知の通りに立つのが合理的です。
これら2つは完全に分離できるものではありません。両方を併せ持つ人が多いはずです。
左右同じ人数だったら、後者が優先されるでしょうし、
自分の認知する側が1人少ないと、前者優先か後者優先かで分かれると思います。
2人分以上少なくても、後者が強い人は少ない方を選ぶかもしれません。
エスカレータというと、現実の日本では関西だけが右側に立つのが主流です。
原作第11巻に登場した「アガスト」のモデルとなったガスト西中島店は、
新大阪駅から徒歩で行けるところにあるのですが、
新幹線を降りてエスカレータに乗ると、大阪に来たのだと実感がわきます。

「いらっしゃい」と迎えられるみたいで嬉しいですね。
話を戻します。
くるみのときに交渉した相手は、24%は受け入れたい気持ちを持っています。
切り捨てる選択をするたびに心が痛んできた。可能なら受け入れたい。
でもその気持ちの強さだって「人による」ものです。
切り捨てる選択をして相手の上に立つことで気持ちいいと感じる人だっています。
その場合、その人にとっては、切り捨てることが合理的となります。
なぜ「受け入れる」が合理的になったのか
いよいよまとめです。
改めておさらいします。
〇水で解決できると認識する確率
平均的には低い。
直感的には過大評価されるが、人類の命運を賭けるほどとは言えない。
〇受け入れる選択による気持ちよさ
あるにはあるが、平均的には低い。
全滅を早めるリスクを負ってまで優先するほどではない。
いずれも「人による」ものであることが重要です。

原作でも最終回に「ランダルも一枚岩ではなかった」と言及されていますが、
特に複雑な事情があったわけでもなく、
自然と分散していくものなのかもしれません。
こういった価値観の差異というのは、身体的特徴には表れにくいものです。
身体的な差があるなら納得しやすいですが、
そうでないと納得する理由が見つけにくいので。
ヒトの形をしているのに理解し合えない、そこに認知的不協和が発生することも。
「ゾンビ」という概念が生まれた根幹の発想なのかもしれませんね。
話を戻すとして。
平均的な価値観を持つ人数が最も多く、
そこから外れるごとに徐々に少なくなっていきます。

正規分布の図をイメージするとわかりやすいかもしれません。
水で解決できると認識する確率は、
高い方にいくほど、右端、少なくなります。
解決できると思える人は極めて少ないです。
受け入れる選択から得られる気持ちよさも、
高い方にいくほど、右端、少なくなります。
全滅を早めるリスクより優先したいと思える人は極めて少ないです。
両方の要素において、要求される水準はかなり端の方です。
片方だけでも満たす人がいる確率が少ないのに、
両方を満たす人がいる確率だと、さらに少なくなります。
ここで、人数の多さが重要になります。
低い確率ですから、条件を満たす人が一人も存在しないことだってありえます。
しかし何人もいたらどうでしょう?
ガチャを回し続ける感じです。
何人もいたら、そのうちのほんの少しですが、存在する確率だって上がっていきます。
その人たちにとっては、学園生活部を受け入れることが合理的になるわけです。
主要人物以外の存在が多く登場し、
主要人物の都合に合わせて動いてくれたように見えますが、
多く登場したからこそ、物質的な合理性から外れる価値観を持つ人が存在する確率が上がり、学園生活部は外部と助け合うことができた——という構図になったと言えるでしょう。
主要人物以外の人物が少なかった場合、合理性から外れる人数が少なく、
ハッピーエンドを迎えることができませんでした。

巡ヶ丘の水が治療薬になることを「水ガチャ当たり」と個人的に呼んでいるのですが、
これは学園生活部に優れたから当たりになったわけではありません。
生きようとした人が集団がたくさんあり、水ガチャがたくさん引かれました。
たくさん引いたから、当たりが一つ出て、それが巡ヶ丘で出た。
そのように解釈しています。
これもまた、人数の多さによるものと言えます。
ご都合だとファンにとって嬉しい←ここからさらに雑音
さて、ここまでご都合ではないという結論に持ってきたわけですが、
議論にもなっている通り、ご都合として読むことも可能です。
そして、ご都合展開でも、それはそれで嬉しいのではないかと思うわけです。
ご都合展開として読んだ場合、
・学園生活部はそこらのヒトよりタカい選ばれた存在だ
・ゆきは真理を教える教祖だ
・世界中のキャラはゆきたちの召使いだ
などが挙げられます。
こういった物言いをすれば、ほとんどのファンが反対するでしょう。
しかし、言い方を取り繕って実態が維持されると、反対するでしょうか?
むしろ喜ぶと思います。事実だったら嬉しいものなので。
「推しやファンである自分は特別な立場である」は事実だったら嬉しいです。
そしてその理想はファン同士で一致するため、事実であるかのように共有されます。
「高位である」という理念を共有するのが難しい場合、所属しない外部を下げます。
実際に、
「自分たちは真理を教えている。外部の人間は野蛮だ」
なんて教義を採用するカルト宗教団体だってたくさんあります。
これの応用例で、
「自分たちは真理教だ。それ以外の集団は全てカルト教団」
なんてのも。
「学園生活部(とファンである自分たち)は特別で、それ以外の存在は召使い」
という構図は、この性質を満たすので、ファンにとって嬉しくなるわけです。
ファンの間では事実であるかのように扱われやすいです。
なので、このようなやり方でがっこうぐらし!終盤を楽しむといいと思います。
まず、物語をご都合として消費します。
そうすることで、特別な立場になる疑似体験ができます。
ファン同士では、みんなで助け合う素晴らしい物語だと共有しましょう。
お互い「思いやりの理解できる人格者」という幻想を保証し合います。
もしご都合だと批判する人がいたら格好の餌食です。
叩くことで、仲間内での「作品を理解してる」という幻想をより強めることができます。
こっちのほうが気持ちいいから
ここまで読んでいただきありがとうございました。